髙崎 今日は和歌山市吹上地区、寺町通りです。江戸時代寛永期(1624~1644年)、今の元寺町にあった寺院が城下町の計画にしたがって、この地域に移転してきました。市民からの応募により名付けられた「寺町通り」という名称は今も親しまれています。意外とじっくり歩いていなかったので、良い機会かと思いました。
M まずは『大恩寺』です。ここではちょっとしたハプニングがありましたね。境内にある「小原桃洞の墓」を見るため、決して広くない墓地をおっさん2人が血眼になって探し回るという(笑)
髙崎 地図を参考にしたのにね(苦笑)
M 私たち、RPGでパーティを組んだら、ダンジョン内ですぐ迷って全滅しますね。地図の読めないおっさんたち(笑)
髙崎 15分は探しましたよね。でもこれもちかばめぐりの醍醐味です(キリッ)
M ちかばというか、同じとこを延々と回ってましたやん。でも見つかった時の達成感はちょっとしたもんでした。皆さんもぜひ探してみてください(笑)
髙崎 ちゃんと地図が読めれば、すぐに見つかるはずです(汗)。続く『恵運寺』はMさんも行ったことがあるんですか?
M 平成24年、日本三大忍術伝書の1つ「正忍記」を記した紀州藩の軍学者・名取三十郎正澄の墓石が見つかった時です。「紀州忍者の墓石発見」と話題になった時に、後輩が取材に行きました。
髙崎 後輩さんでしたか(苦笑)。さすが編集長、現場はノータッチと。
M いまは自分しか動く人がいないですが(泣)。この時は、髙崎さんと住職が趣味の話で盛り上がって(笑)。
髙崎 趣味の水草のお話でしたね。ご住職は昔から水槽レイアウトに力を入れられている方で、私は昔から住職が書かれていたブログも拝見していて、いつかお会いしてみたかったので、あの時は本懐を遂げた思いでした。
M ちなみに境内にある「休憩所忍術資料室」では、忍者や名取三十郎について展示されているので、こちらでお勉強できます。そしてなぜかインベーダーゲームのゲーム機もありました。
髙崎 そこ、住職に突っ込んで聞いてほしかったです。ま、それは置いといて、『感應寺』へ向かいましょう。
M 寺町通り沿いにある「真砂浄水場」は立ち寄ってほしいですね。中には入れませんが、レトロな雰囲気の建物は一見の価値ありです。
髙崎 今回の目的地である『感應寺』は、学芸員からも来訪を薦められたお寺でした。災害時には地域の避難場所にもなっており、周辺に住む皆さんからも慕われ、コミュニティが構築されているイメージがあります。
『感應寺』は元和7年(1621年)、徳川頼宣の母が「死んだらここへまつってほしい」と本堂坊舎を建立したのが始まりです。
こちらの七面堂本殿は、瑶林院(加藤清正の娘で徳川頼宣の正室)が頼宣の武運長久を祈って寛永4年(1627年)に建立されたものです。紀伊藩が建設に関わった建物としても貴重です。拝殿は明治末期に高野下の真言宗寺院の仏堂を移転したもので、江戸時代中期の建立と考えられています。昨年2月には和歌山県指定文化財に指定されました。
こちらには和歌山城二代目城主・徳川光貞が建てた『湊御殿』が現存されています。和歌山城二代目城主・徳川光貞が、今の言葉でいえば「別荘」として建てたのが『湊御殿』で、お城の上屋敷に対して下屋敷と呼ばれていました。その後、3回ほど火災に遭い、現存するのは、同11代、徳川斉順(なりゆき)が天保5年(1843年)に再建したものです。
明治の廃藩置県で解体されることになり、書院造りの一部が、徳川家ゆかりの感應寺に移転され、ほとんど当時のままの姿で残っています。毎年11月19日には、一般公開もされています。
M 実は昨年の公開日におじゃましてきました。
髙崎 なんと、まさかの展開(笑)。どうでしたか?
M さすがに撮影はしていないのですが、天井に描かれていた極彩色の孔雀の絵が素晴らしかったです。資料によると、当時の紀州藩絵師、野際白雪の筆によるものだそうです。現存しているという事実に価値を感じました。それに葵の御紋が入った火鉢にも目を奪われました。
この日は午前におじゃましたのですが、六畳間から見える庭がとても美しく、背筋の伸びるような空気が漂っていました。毎朝ここで気持ちを落ち着けてから出勤したい思いに駆られました。
髙崎 私も今年は見学に行ってみましょうかね。興味のある方はお問い合わせください。
(次回は2023年3月14日(火)午前11時より公開します)