和歌山市のじゃんじゃん横丁で喫茶店『珈琲もくれん』を営む村上洋一さんと話した珈琲にまつわるあれこれを、連載でお届けします。
※取材、撮影は2021年2月中旬に行いました。
第1回「喫茶店経営は60歳からだと思っていた」
――そもそも村上さんが珈琲の世界に触れたきっかけは?
村上(以降、省略)
京都に住んでいた19歳の時、当時の彼女だった妻と付き合い始めた頃にコーヒーメーカーで淹れてもらって飲んだのが、初めての珈琲体験でした。妻は珈琲が好きだったんですが、僕は缶コーヒーしか飲まなかったし、日本茶党。でもその時に、初めて珈琲のおいしさを知りました。珈琲豆は小川珈琲で買ったものでした。
――そこから他店の珈琲をいろいろ極めようと?
いや、まったく(笑)。それから時間は飛びまして。京都の木工工場を退職し、岐阜に移住した時だから20歳か21歳だったかな。その時はまだ結婚前でしたが、妻が岐阜県の山奥で喫茶店を始めました。お店の珈琲は手網焙煎で出していたんですが、その珈琲がおいしかった。そこから珈琲をもっと好きになるかと思ったんですが、その時は野草茶のブレンドにハマっていたんです。
――なかなか珈琲一本にはいかないですね(笑)
そうそう(笑)。岐阜で暮らしていた頃は、前職の経験を生かして、造園屋さんの仕事なども手伝っていました。その頃に知り合った建築士の方から「和歌山市で横丁興しをしようとしている人が、喫茶店経営に興味のある人を探している」と教えてもらいました。それが21歳の頃。
でも正直、その時も珈琲には全然興味がなかった。その方が「60歳くらいになったら喫茶店をやりたい」と僕が過去に話していたのを覚えてくださっていて、教えてくれたんです。
――セカンドキャリアとしての60歳から?
僕たちが若い頃の定年は60歳でしたから、それもあります。でも、例えばお客さんとの会話で、60歳のマスターから「いろいろありますよねー」といわれると説得力がありますが、20歳そこそこの若造の言葉だと「お前に何がわかるねん!」と返されるじゃないですか。だから60歳くらいだとマスターとして接客が成り立つのでは?というのはありました。
でも自分なりにトライアンドエラーを重ねて「60歳から本番!」と思い、若いけど喫茶店経営を始めようと決心しました。だから今も修業期間みたいな感じ(笑)
――建築士の方からの言葉がなかったら和歌山に来ていなかったですね。
そうですし、そもそも喫茶店を20歳代で始めていたかもわからない。それに、じゃんじゃん横丁の管理人さん…僕は「にいさん」と呼んでいますが、にいさんが「やってみたら?」と気軽にいってくれたのも大きかった。
サイフォンを使った珈琲の淹れ方を教えてくれたのも、にいさんなんです。しかも開店予定の3日前。それだけなんですよ(笑)
――お店を始める3日前!?
その時、にいさんのことを「廣長さん」って呼んでいたんですが、「廣長さん、珈琲の入れ方教えてください」と話すと、「そうやったね、もうちょっと待っといてね」といわれたきり、それから音沙汰なし(笑)
開店3日前にもう一度いったら「そうやったね」と、ようやくサイフォンの珈琲の入れ方を教えてもらった。それで「あとはお店で出して慣れていってね」と。あーそうなんやーと(笑)
開店後、お客さんからアドバイスされたり、怒られることもありました。サイフォンからネルドリップに勝手に変えて「いきなり変えるな!」とか。
――専門店で修行したわけではなかったんですね。開店するまで不安じゃなかったですか?
建築士とにいさんと3人で話した時に「プロでも最初は素人やん」といわれたのもあったし、木工工場で働いていた経験も大きかった。そこの会社は徒弟制度みたいな感じで、親方はキャリアの浅い人でも現場に出すんです。ある日の現場で僕は大きなミスをしました。当然怒られましたが、「失敗はするもんやから」と親方が現場に戻り修繕してくれた。そういう環境で働けたのも良かった。
自営業で失敗すると自分の責任ですし、お金をもらえないこともあるのは仕方がない。幸いこれまではなかったですが…。基本的に性格、気楽なんですよ。それって親に感謝かなと。「普通でいいから、平凡に育ってくれたらいいから」と、小学校に上がる前に親から諭されたという話を、この前、店のスタッフに話したら「『この子、変わっているから言うとかないと』って親御さんが思っていたんでしょうね」っていわれて、ちょっと納得しました(笑)
――村上さんの周りにいる人たち、皆さんおおらかですね。人に恵まれていますよ。
おおらか(笑)。社会はおおらかですよ!(笑)
(次回は5月6日(木)午後6時更新の予定です)